日本映画1920-1960年代の備忘録

1920年代の無声映画から1960年代前半の日本映画

禁煙の愉しみ 2000年 山村 修  新潮OH!文庫

”煙草をやめることは「苦行」ではない」思いがけない快楽の発見者””と表紙にある。

著者は私立大学の図書館に勤める人だ。彼はこれまで禁煙した物が書かなかった本当のことを書こうと思ったと言っている。

1998年のあとがきには

煙草は有害だから我慢して止めなければいけないと書かれているばかりだが「禁煙が忍耐」だとしたら禁煙者の誰もがそんな忍耐力をもった人なのか、どこかに嘘があるのではないか。ただでさえ労苦の絶えない人生でその上禁煙まで抑制や辛抱だったらかなわない、ところが世の中には、禁煙というものが自分を制し、欲望を抑えてはじめて可能なのだという考えが定着している。ほんとうだろうか。

とある。

そして何か秘密があるのではないか。煙草を断つことにで起こる身体反応は単純だ。ニコチンへの渇望が休むことなく噴き上がる。それだけ。そうだとするなら、どうやら禁煙の秘密はそのニコチンへの渇望そのもに潜んでいるのではないか・・・。そうした予感が自分の最後の禁煙体験によって確信となり、私はこの本を書きはじめた。

成功した禁煙者が語ろうとせずにきたことを、明るみに引き出してみたかった。

禁煙にまつわる苦行のイメージを払いのけてみたかった。そのイメージこそ躓きの石だと思えたからだ。そこに嘘があり、まやかしがあると思えたからだ。

彼は身体的な感覚の表現のむずかしさには手を焼いた。とも言う。

そして書くことは苦行にほかならず、皮肉なことに、禁煙して結局はみずから苦行を強いてしまったのである。と結んでいる。

 

一番印象的だった記述は

「朝起きて、煙草を吸わない。職場で煙草を吸わない。むずかしい仕事に直面しながら、煙草を吸わない。知人と酒を飲みつつ、話の接ぎ穂を考えながら、煙草を吸わない。夏のさかんな日盛りのなか、涼しい喫茶店に入って息をついたとき、煙草を吸わない。書かねばならぬ書類や手紙などがあるとき、煙草を吸わない。文章にあれこれ苦しみながら、煙草を吸わない。うれしいことがあって胸が弾んだとき、煙草を吸わない。悲しみをまぎらわせたいとき、煙草を吸わない。もちろん三度の食事のあとに煙草を吸わない。就寝儀式としての・・・」

煙草を吸わないだけのことだけど、いかに自分の生活に煙草が紐づけされているかに気づき、茫然とし、そして茫然としてみたかったと言う。

2000年のあとがきに

あいかわらず禁煙と健康を結び付けるのが常識で、それでは禁煙を愉しむ者の立つ瀬がない。そんな禁煙者の「立つ瀬」をこしらえるために、せっせとこんな本を書いたのだなぁーと、しみじみ思う。2000年秋

と結んでいる。

 

2006年、彼は死んでしまった。肺がんだったという。