日本映画1920-1960年代の備忘録

1920年代の無声映画から1960年代前半の日本映画

激闘!闇の帝王 安藤昇   さくら舎 2016年5月 第一刷 大下英治

清水昭氏が安藤昇の経営していた青山のアスコットというサパークラブへよく行っていて、そこで自分のプロダクションへ安藤昇を誘ったという話はネットで読んで知った。

もしかしたら清水昭氏についての記述があるのではと思い図書館で借りました。

 

第14章破天荒 俳優安藤昇の大ブレイク の章ででてきました!清水昭!

 

その後、清水昭氏の紹介で安藤昇は同じプロダクションに所属する嵯峨三智子と知り合い、3年半付き合うとう記述と、嵯峨三智子の豪勢な生活は当初、清水昭が全て肩代わりしており、その後は安藤昇が自分のギャラの中から支払っていたという。

まず、松濤の豪邸の賃料、十数万円は今の八十万円ほど、その他 青山の美容室に約十万円、京都・都ホテル数十万円、ハイヤー会社四十万円、宝石店八十五万円、呉服店数十万円など、すべて太平洋テレビに請求書が回され清水社長の支えで嵯峨がそんな生活をしていたという。

嵯峨は薬物中毒で痛み止めが手放せずにいた。

 

その後の昭和46年10月1日から清水昭氏は映画界から愛想をつかされた嵯峨を自分の経営する銀座のクラブ、あぽろンでホステスをさせ、カムバックの機会をつくろうとしていたが、嵯峨が突然借金を残したまま(清水が立て替えたもろもろの生活費?か)同年11月12日突然失踪、同年 週刊女性の12月25日号に嵯峨が手記をよせ清水社長と手を切ると宣言し清水昭への不信感を吐露したとある。

翌昭和47年1月1日号の週刊女性に今度は清水昭氏が反論。

それが「山田五十鈴さん、娘 嵯峨三智子のマネージャーになりなさい!清水昭」という記事だ。

嵯峨の失踪から4か月、嵯峨は岡山のクラブ烏城でホステスをしていると報じられた。

 

ところで・・・・この本のメインはもちろん安藤昇のことだけれど(喧嘩の話ばかりなんだけど 笑)、もうひとつ疑問がわいた話が載っていた。

それは横井英樹を襲撃後、安藤昇が逃走するのだが、逃走先のひとつに山口洋子がでてくる。これは昭和33年のことで山口洋子安藤昇の愛人のひとりであったことがうかがわせるが、山口洋子と言えば19歳で銀座にクラブだかバーを開いた東映の第4期ニューフェースだったことが有名だが(その他作詞家としてもだが)彼女は1937年生まれで、安藤が山口の代々木の自宅にかくまわれたのが1958年、山口洋子が20歳か21歳である。この本には山口洋子が安藤がいるから「わたし、今日会社休んじゃう」と言うと安藤は「休んだら変に思われる、撮影所にも洋子と俺のことを知っている人間もいるだろうし・・」というと「仕方ないから顔出してくるわ・・」とある。

19歳で経営したという銀座のバーだかクラブだかのことは一切でてこない。

この本だと、だから山口洋子は19歳で銀座のママではなかったことになるがどうなんだろう・・・?

 

ネットでもう一度調べてみると・・

山口洋子は1963年に銀座の姫をオープンとあった・・。

26歳くらいのことだ・・。

19歳の話はなんだったんだろう?クラブ順子の順子ママと混同していたのだろうか?

でも銀座で最年少のクラブママ、24歳とある・・・。