日本映画1920-1960年代の備忘録

1920年代の無声映画から1960年代前半の日本映画

私の履歴書  吉行和子 日経新聞

今月の日経新聞私の履歴書」は女優の吉行和子だ。

彼女の話はとても興味深い。1960年前後の日活映画に吉行和子は主役ではないがちょくちょくででいて、私はこの記事を読むまで彼女は日活の女優さんだと思っていた。

私の勝手な推測では、今まで作家、吉行淳之介の妹だから女優になれた人・・程度だったのだが・・・ぜんそくで学校も休みがちだったが、演劇をみにいって自分も参加したいと思い、裏方ならできると思うようになって・・・とある。

そして実際は高校在学中に民藝の試験の合格した民藝の女優さんだった。

滝沢修宇野重吉も民藝の俳優さんだったのだ・・・と初めて知った(;^_^A

 

当時、五社協定に参加していなかった日活が俳優不足で民藝と手を組んだという。

そこで滝沢修芦田伸介さんがたくさん日活映画にでているのはそのためだ。と書いてある。

そうそう、芦田伸介も民藝の俳優さんだったんだ((;^_^A。知らなかった。。

 

そして日活映画「あいつと私」で石原裕次郎と共演したが、その映画が民藝では問題になったと言う。私もその映画は見て、ここで備忘録を残したと思うが、確かに吉行和子学生運動に参加している役ででていた。一緒に住んでいる女友達がデモの参加者に乱暴されるというのも覚えている。それがデモに参加する若者が皮肉を込めて描かれていることや、その傷ついた女性を救うのが裕福な青年であるという設定がまずかったようだと言っている。尊敬する宇野重吉にも「どうしてあんなのに出たんだ」と悲しそうな顔で言われたと書いているが、その映画に出ろと言ったのも民藝で、指示に従って出演したのに・・・・ということだ。当時の民藝はデモに参加したり、労働歌を歌ったり、左翼運動を関係が深かった、また吉行自身もデモにさんかしたり、友人が全学連の恋人とともに自分の部屋に入り浸っていたと書いてある。

 

そして吉行としてはデモも日活映画の華やかさもどちらもおもしろがってしまうようなところがあった。と第12回で書いている。

 

その他にも「にあんちゃん」が第10回ベルリン国際映画祭に出品され、前評判では受賞間違いないと言われていた。彼女は日活に振袖と足袋20足、それも既成の足袋じゃなくてオーダーメードの足袋を用意してもらって日活の社長とベルリンへ行く。空港ではみなに迎えられることを想定して機内で振袖の着付けをしてもらい、タラップに立ったが、誰もいなかったという。

日本のデモ隊の起こしたハガチ―事件が発端となり、日本はけしからん!というのでそのとばっちりもベルリン国際映画祭へ行った吉行和子も受けたのだ。

 

また赤木圭一郎氏との共演で、「いい男は心もきれい」と言っている。

暁の拳銃で共演した時の話だが、確かアマゾンプラムビデオで無料で「暁の拳銃」は見れたはず・・・今晩要チェックです(笑。

 

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吉行和子の近影

ただちょっと残念なのは彼女、目の手術をしてたるみを取ったのだろうが、明らかに不自然なバッチリ眼になっちゃったことだ・・・。

二言目にはパリが出てくる(笑、岸惠子の「私の履歴書」よりよっぽど面白く、疑問が解消されためになる(笑。

そう言えば岸惠子、最近本を出版したみたいで新聞の広告で見かけたことがある。

やっぱり「パリなんちゃら~」という題名の本だった記憶。もちろん買わないし、読まないけど(笑。