日本映画1920-1960年代の備忘録

1920年代の無声映画から1960年代前半の日本映画

女優にあるまじき高峰秀子  2018年 斎藤明美  草思社

私の好きな表紙の本。出版された時、なぜか購入機会を逸していまだ所有せず。図書館にて借りた。前にも読んだけれど、もう一度読み直し。

待たせない、自作を観ない、マネージャー、付き人を持たない・・・などからなる高峰秀子の実像!この自作を観ないでは、「浮雲」ですら50年近く経ってから斎藤明美氏がもっていたビデオを借りて高峰本人が観たのだそうだ。高峰がなぜ観たかったかというと「浮雲」が高峰 最後の作品になる予定で「やる気でやりました」と言うことだが、実際は松山善三の稼ぎがなかったので高峰は引退できなかったのだ。

 

ただ、これはちょっと疑問なのだが、私はこの本の他に「類型的なものは好きじゃないんですよ」と「あぁ、くたびれた。」も借りた。これは雑誌に載った高峰の随筆を載せている本で、著者も高峰秀子となっている。この本の題名は高峰自身が言ったことだ。

この「類型的な・・・」の中に高峰45才のときの「成瀬先生、さようなら。」という一文がある。それは1969年7月2日、岩波ホールで日本映画観賞会のために「浮雲」が上映されることになっており、映写のあと、高峰が舞台で「浮雲」の思い出話や病気(療養?)中の成瀬先生のお話をすることになっていたという。しかし、当日の朝、成瀬の訃報をきいた。ただし「浮雲」の上映は決まっていたことなので断るわけにもいかず、

”私は観客と一緒に「浮雲」を見ました。”とある。そして”「浮雲」は、完全に美しいプリントで、映写が終わったあとはさかんな拍手がおこり、”とあるのです。

ですから、高峰は斎藤氏には見たことがないと言ったのかもしれないが、実際は45才の時見ていた・・・と思われるけれど・・・どちらも斎藤氏が関わっているからこの矛盾を解明して欲しい(笑。

 

「にんげん蚤の市」この本は所有してます♪

その中で乙羽信子について言及していて私は納得してしまった。

乙羽信子高峰秀子は同じ年だ。乙羽が初めて高峰秀子と共演したのは「女といふ城」で宝塚時代から高峰のファンであった乙羽が高峰と共演できて夢のようだとお礼を言ったという。しばらくはそれで仕事も一緒ではなくなったが乙羽の映画の評判は芳しくなったという。なぜなら映画界では誰も演技をおしえてくれないからだそうだ。ところが

新藤兼人の「愛妻物語」に出演した乙羽に演技のイロハから新藤は叩き込んだ。それに乙羽が新藤を尊敬し、愛になり、思慕・・・で、乙羽は新藤にメロメロ・・・しかし!デコちゃんは言う。「乙羽さん、ちょっと立ち止まって頂戴。そして冷めた目で自分を見て頂戴。」と、私は言いたかった。・・と書いてある。

 

そしてあの「縮図」。高峰は縮図を見に行ったというが、乙羽の演技は体当たりで、ひたむきだったがそれが

邪魔になり情念や余韻が乏しかった。とある。そして「どぶ」「鬼婆」と新藤、乙羽コンビが続いたが、乙羽さんの体当たり度はますますエスカレートして「鬼婆」の過剰なメイクアップやヌードには、正直言って辟易した。とある。納得(笑。

乙羽の顔の眉間のしわは精神的な悩み(新藤とのあやふやな関係)がすっきり解決しない限り消えないと思う。私たちはもう50才になるのよ・・・生きているうちに奥さん戸呼ばれて、スィッと胸を張って歩いてみたら、どうかしら? と言ったと言う。

 

宝塚育ちの乙羽信子・・・まったく新藤兼人と知り合っちゃってもったいないことをした・・・本当に残念な女優さんだ。高峰は乙羽を免疫のない人だという。だから妻子ある変な男(笑、にすっかり惚れちゃって、言われるがままになっちゃったんだね。

 

ただ、高峰は乙羽最後の作品「午後の遺言状」は新藤兼人の最高傑作だと書いているが

リップサービスだと思う(笑。杉村春子も出てたしね。