日本映画1920-1960年代の備忘録

1920年代の無声映画から1960年代前半の日本映画

わがやのおかずこの一品 高峰秀子編 光文社 昭和58年 初版

有名人65人のこれさえあれば・・・高峰秀子

 

あのKAPPA HOMESシリーズだ。

高峰秀子の口上が絶品!

そして高峰の台所仕事は、母の「清潔好き」「潔癖」を乗り越えて、「癇症」といおうかほぼビョーキといえるまでエスカレートしちゃった理由は自分にもわからないと書いている。

ここでいう「母」とは養母の「デブ」のことだが、養母とは書かずに母と書いている。

すでに「私の渡世日記」が出版されているけれど、養母に関しての悪口(笑 はこの本にはない。

そもそも、養母のことを「デブ」と高峰が言ったことをどこで知ったのか???

と考えると、養女である斎藤明美氏の本(高峰秀子の捨てられない荷物?だったか?)かもしれない。もう一度「私の渡世日記」と「高峰秀子の捨てられない荷物」を読み直さないと記憶があやふやだ。

 

私がずっと疑問だったことは高峰は料理がうまかったし、料理の本もあるけれど、その料理を誰から習ったか?ということだ。

普通、家で炊事をしている母親の様子をみたり、手伝ったりして習うというほどかしこまらずになんとなく覚えていくものじゃないだろうか・・・。

だから高峰の料理の根本はやはり養母にあるのではないかと思ってはいるけれど、それについて高峰関係の本で言及されていない(と思う)

 

この本の前書きで述べられている「母から学んだ狭い台所の知恵」と題する文章では

料理のことというよりも清潔好きと言っているが、「母は、洗い場に置いた洗い桶の上に小さなマナ板を渡して、小器用におそうざい料理を作った・・・」のところに注目すると、それを見ていてなんとなく覚えていったのではだいだろうか。

 

そして東海林太郎の家へ住んだ時も母親は女中として働いていて、その時も母の料理作りをみていたのではないか?

 

ただし、まだ母子とも貧乏暮らしの時代。

 

その後、高峰が稼ぐようになると女中が7人もいる大きな家に住んだので料理などつくらなかったのだろうが、高峰がフランスへ逃避行した時、高峰が母にあげた家屋敷を料理旅館?に変えて営んでいた養母だし、高峰の北海道の家は祖父が大きな蕎麦や兼料亭?を営んでいた。その家の娘だった養母だからやはりそれなりの料理はできたと思う。

 

斎藤氏によると高峰の卵焼きは絶品で、冷蔵庫の中にはいつも高峰が作った八方だしがいれてあって、それを使ったとある。

だから、そのだしのとり方は私は養母から学んだと思っている。

斎藤氏には是非そこの部分、はっきりさせて欲しい(笑。

 

中身はというと有名人の「お宅独特のおかず一品、教えてください。ただし、ウンと安上がりで簡単なおかずにかぎります。」ということで紹介されている。

見てみると、昭和50年代に活躍した懐かしい名前があった。

木本教子なんて懐かしい。今生きてるのだろうか?・

1932年生まれでまだご存命(失礼しました)wikiより

 

加藤芳郎なんかもよくクイズ番組とかでていた。塩月弥栄子という名前も見たことあるぞ!村上信夫も当時、よくテレビによくでていた。

 

高峰秀子本人が披露したのは「鶏のミンチ団子鍋」

全ての料理の材料と作り方が書いてあります。